『シーマン』の企画を進める途上、音声認識の技術をコンシューマーゲームで使うことに、かなりの不安と葛藤がありました。
セガが心配していたのは、“人々はテレビ画面に向かって声を発してくれるのか?”という疑問でした。
確かにそういう事例は世界に1つもありません。
でも、僕はエンターテインメントの人間だったので、そこにはいささか自信がありました。
それは、何か面白いことが画面の中で起きるならば、人は自ずと声を発してくれるのではないか、と。
というのも、カラオケが出はじめた頃、自分の歌声が店内に響き渡ることが恥ずかしくて歌えない人たちがたくさんいました。
でも、いつしかそれはごくごく日常の中に溶け込んできました。
そういう光景を見ていたので、僕はテレビゲームもいずれはテレビ画面に向かって人間が声をかけるようなものになると思っていたのです。これは今も思っています。
実は、こういう発想を持つに至ったのはいくつかの事例を経験していたからです。
セガのドリームキャスト用に『シーマン』を作ることになるよりずっと前の話になりますが、僕が大きな影響を受けた2つの作品あります。
1つは『ラクター』です。 ラクターというのはMacintosh用に出された人工無能の英語のソフト。
パッケージには英語でこう書いてありました、「ラクターというのは、人間の男性の名前で、この人物はかつて酒場のどこかで私生児として産み落とされ、その後、屈折した人生を送り、ニーチェをこよなく愛した」など、屈折した性格の人物であると。
このアプリは、秋葉原にあるMacintoshの輸入ソフト専門店で買って来たもので、購入したのは1986年だったと思います。
Macintoshの3.5インチフロッピーディスクドライブに『ラクター』のソフトを入れると、テキスト入力画面が出て来て、「さぁ、何でも話しかけてくれ」と話しはじめるのです。
テキストで何かを入力すると、英語ですけど笑ったり、皮肉られたり、それはもうコンピューターというより屈折した人格がそこにあるかのような、とても不思議な世界が繰り広げられるのです。
僕はこの当時、Macintoshというコンピューターのハッカー文化に、ミュージシャンに対する憧れに似た感情を持っていました。
MacintoshはIBM-PCのような事務用のコンピューターとは違う、ロック音楽のような思想性を持ったコンピューターなのです。
そしてそこに生まれてくるゲームは、任天堂やゲームセンターにあるような子ども用のゲームとはまったく違う、頭の良い今でいうハッカーと呼ばれる、悪びれた天才たちのアプリが次々と送り込まれていたのです。
それはまさに、海外のロックミュージシャンの直輸入版LPに手を出すのとちょっと似た、危険さとカッコ良さがありました。
秋葉原の怪しげな輸入ソフト専門店で、解説もろくにないのに、パッと見のジャケ買いをしたわけです。
無論、返品不能。しかも高い。 ネットなんてない時代。「バグニュース」と言うゲーム雑誌がわずにに取り上げていた程度のソフトでした。
初期のMacintoshはモニターがモノクロでしたが、サウンドは凄かった。
ビープ音ではなく、録音されたサンプリング音が再生されることにビックリしたことを覚えています。(ちなみに、僕がゲーム業界に入るきっかけとなったシムシティも、この時期にモノクロのMacintosh用にリリースされていました。)
それからもう1つ、大きく影響を受けることになったのが、Appleが1988年頃に発表した、『ナレジナビゲーター』というビデオです。
これは、Appleとルーカスフィルムが一緒に作ったと言われていますが、今ある製品とはまったく別の、架空のコンピューターをAppleがイメージし、映像でプレゼンテーションするというものでした。
これは文字で細かくご紹介することは困難なので、YouTubeなどで映像が残っていますので、そちらをご覧になっていただくのがいいかもしれません。
こういうものの影響を受けた僕は1993年に、コンピューターを使った未来のリクルートブックのプロトタイプを映像で作りました。
その中には音声認識で会社選びをする風景が出てきますが、この映像はAT&TやAppleと比べられて紹介されたことを覚えています。
こうした各社が作った未来のコンピューターのあり方に多くの影響を受けながら、僕は『シーマン』というものを、世界の頭脳が集まっているMacintoshというプラットフォーム上で実現しようと思ったわけです。
これまでの常識的なゲームとはまるで違うこの変なタイトルは、(セガのドリームキャストとはまだまだ先の出会うことなりますので)、当時一番かっこいいコンピューターだったMacintoshで開発しようと、アメリカに渡りスタジオを作りました。
なぜアメリカなのか? その理由は、当時、シムタワーと言う名前で作った私の最初のゲームが「シムシティ」の続編的としてリリースされ、大ヒットしていたのですが、その発売元であるMAXISがあるカルフォルニア州のバークレーにあったから。
何かと知人がサポートしてくれる環境がそこにはあったからです。
そして、Macintosh上で『シーマン』という気持ち悪いペットの試作品を作るために地元で採用を開始したのです。
この当時、セガという家庭用ゲーム機で発売するにあたりぶち当たる「テレビに向かって人は話しかけるのか?」という大きな課題については、Macintoshという先進的なマシンでの試作段階では、まだ考えもしていませんでした。
むしろ、『シーマン』は、キャラクターデザイン(魚と人の顔)も、話す内容(ドリフターズの荒井注さん風「何見てんだバカヤロウ」 的な口調を含む)も、ナレッジナビゲーターの「声で話しかける」という要素も、すべて揃ってないと意味をなさない企画になってました。
この理由はよくわかりません。当時はただただ直感のまま進めてきただけです。
でも今振り返ると、諸事情でどれか1つでも妥協していたら、ヒットはなかったはずです。